『御前浜 海辺のひろっぱ』

●御前浜・香櫨園浜の歴史:こぼれ話

昔は遊園地や風呂屋、住宅があったり、今も円筒形の砲台が残るなど御前浜・香櫨園浜は不思議な歴史でいっぱい。
今後、そんな浜の面白話を順番にご紹介していきます。

※白黒写真はクリックすると大きくなります。

□一大レジャー拠点 香櫨園浜海水浴場

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1954(昭和29)年頃
航空写真

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音楽堂

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海の家

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マリンプールの様子

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レオポン

*賑やかな海水浴場

阪神電気鉄道(株)の沿線開発の一環として、1907(明治40)年に同地に開設されました。
香櫨園駅から浜までの道(現オアシスロード)をボンネットバスが走り、 大勢の海水浴客を運んでいました。 この道沿いと浜の北側一帯には多くの葦簀(よしず)張りの出店が立ち並んでいたと言います。

浜には香櫨園遊園地※1 から移築された演芸場(「阪神館」と呼ばれる)、 音楽堂やローラースケート場に加え無料休憩場、有料休憩場、売店などで大いに賑わいました。
この海水浴場開設を機に古来からの“御前浜”は “香櫨園浜”と呼ばれることが一般的になりました。

*海水浴場閉鎖とマリンプールの開設

高度経済成長期、沿岸域の開発や下水・工場廃液の放流などによって次第に海水が汚染され、 1965(昭和40)年海水浴場は58年の歴史に幕を閉じます。

その後しばらくは、浜にマリンプールが設けられました。 このマリンプールにはレオポン※2 の像が立ち、そこからは噴水も出ていました。 井戸水を引いたというプールの水は夏の暑い日でも冷たかったそうです。

マリンプールの傍には、地元の漁師が開いた釣り堀が営業しており、 近海で獲れたあじやさばなど釣って食べられる遊び場として人気の場所でした。

今は当時の賑わいとは打って変わって静かな浜辺ですが、 砂浜から顔を出す当時の遺構がかつての賑わいを思い出させます。

*香櫨園水練道場

香櫨園海水浴場には、水泳を指導するための施設としての水練場 「帝国水友会香櫨園水練道場」が設置されていました。 10歳から入門が許され、親の承認さえあれば無料で通うことができました。 この道場は、少年班、青年班、特練班、婦人班、研究班の5班に分かれ、 帽子の色や進度を表す筋によって、班級が分かるようになっていました。 大体3回の夏を経験すると、どの子どもも全ての泳ぎを習得できたといいます。

†note・・・

※1:香櫨園遊園地

1907(明治40)年、大阪の砂糖商人香野蔵治氏が所有地約8万坪 (現阪急夙川駅北側一帯) を櫨山喜一氏とともに開発した遊園地。

庭園、大運動場、旅館等を設け、両者の名前を取って「香櫨園」と名付けられました。

阪神電気鉄道(株)も1万坪を借り受け、同地で博物館や動物園の経営に乗り出します。 ウォーターシュートなどの遊具もあり、一時はレジャー施設として盛況を極めましたが、 わずか6年で経営が悪化したため、阪神電気鉄道(株)が開発した施設の一部は、 香櫨園浜海水浴場に移設され利用されることになりました。

※2:レオポン

阪神パークで世界で初めて誕生した、雄ヒョウ(Leopard)と雌ライオン(Lion)を人工交配させた幻の動物。

1959(昭和34)年に二頭(「レオ吉」「ポン子」)、 続く1961(昭和36)年に三頭(「ジョニー」「チェリー」「ディジー」)が誕生しました。

しかし、子孫を残すことが出来ず、1985(昭和60)年に最後に残った一頭、 ジョニーが死んで絶滅してしましまいました。

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□日本最初の水上飛行

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水上飛行記念絵ハガキ

1912(明治45)年6月8日から3日間に渡って、 香櫨園浜(御前浜)や西宮浜において、 米国人アットウォーターによる日本初の海上飛行が催されました。 水上機はカーチス複葉機「かもめ号」。 観衆は20万人にものぼったといいます。 最終日には朝日新聞社の記者が試乗。 これは新聞記者が飛行機に同乗した最初の出来事でした。

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□浜辺でお風呂?!角の湯跡

角の湯跡

海水浴場で賑わっていた頃、浜辺には「角の湯」と呼ばれる風呂屋が営業していました。 この風呂屋は、海水浴場が閉鎖された後もしばらくは営業していたようです。 海水浴で楽しんだ後、体についた砂や塩を洗い流して綺麗さっぱりしたことでしょう。

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□松の油で空を飛ぶ 失われた白砂青松の風景

今も残る松林

この浜は、戦前までは白砂青松の美しい海岸でした。 第二次大戦の戦火が激しくなるにつれ不足しはじめた航空機用燃料として松根油(松ヤニ)が用いられることになりました。 このため全国各地で松が伐採されることになりました。 ここ御前浜でも太さ30cmを超える松は伐採されてしまい、海岸風景は一変しました。 現在、浜に並ぶ立派な松は、当時は細くて使われなかったものですが、 かつてこの浜に美しい松林があった光景を想像させます。

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□西宮砲台

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修復前 近景

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修復前 屋根がない頃

  修復後 内部

修復後 天井

  標柱石

*幕末は沿岸防護の重要拠点

1853(嘉永6)年のペリー来航以降、 江戸幕府は沿岸警備への具体的対応を余儀なくされます。 当時の将軍家茂が摂海防衛策をとりまとめたことから、砲台の築造が具体化します。
そして、1863(文久3)年、老中格小笠原長行(ながみち)が台場築立御用掛を命じられ、 軍艦奉行並勝義邦(海舟)とともに、砲台建設に乗り出します。

*最先端の技術を駆使して建設

“砂浜”という軟弱地盤のために、 基礎工事では1,541本もの松杭が打ち込まれました。 建設に必要な石は、近くに御影石の産地があったにも関わらず、 遠く備前・備中の島々(現:岡山県笠岡市内)から切り出されました。
この理由は、切り出し賃が高かったことや、運搬も陸路よりも海路の方が便利であったから、 と考えられています。 この大工事には当時としては破格の通常の2倍の賃金が支払われ、 熟練工を多く招集して突貫工事で建設が進められました。

完成した石造三層の円堡は、内径約17m、高さ約12m、壁厚1.21m(1階底部は1.53m)、 周囲は土塁で固められていました。 その外壁は厚さ9cm。油石灰の5遍塗、上塗碓墨色塗でした。
1階は床叩土で、中央には防火用の井戸が掘られ、その一部は床板敷の弾薬庫が設けられ、 2階は木造で側面に砲眼が11個、北側に陸側からの指示を受けるための窓が1個開けられました。

1884(明治17)年、火災のため内部が焼失。 現在は完成当時の構造を目にすることは出来ませんが、 現存している和田岬砲台の内部構造と酷似していたと言われており、 西洋技術も取り入れた立派な木組み構造であったことが想像できます。

立派に完成した砲台ですが、空砲を試し撃ちしたところ砲煙が堡内に充満してしまいました。 結局、実用には向かず一度も使われないままに明治を迎え、その役目を終えることになります。

*あれほうだい(砲台)から修復・・そして

その後、放置されたままの砲台は周囲の壁ははがれおち、 内部の石積み構造が剥き出しとなりました。 そのため、「あれほうだい」と揶揄されていたそうです。

石堡塔を取り巻く土塁も雨風にさらされるうちに、 台風などの被害も手伝って、次第にその形を失っていきました。 現在は一部が残存するだけですが、 かつて円形に取り巻いていたという様子は伺えます。

1974(昭和49)年の大河ドラマで勝海舟が取り上げられたことにより、 西宮砲台も脚光を浴び、再びその価値が認識されるようになりました。
その結果、1978(昭和53)年、荒れ果てた砲台の改修作業が進められます。
倒壊の危機に陥っていた石堡塔の保護のため、内部は鉄骨で補強、 その周囲は万が一倒壊した際に人的被害が生じないように柵が張り巡らされました。 その際、外観は建設当初に復元となり、壁は上塗碓墨色に塗られました。

幕末当時の様子を物語るこの貴重な史跡。 今後はどのように維持し、後世に伝えていくか検討が必要です。

*取り残された標注石

1922(大正11)年、西宮砲台は内務大臣指定史跡となります。 翌年、標注石・境界標・制札の設置工事が行なわれました。 しかし、その後の防潮堤建設や道路の開通は、史跡砲台を横切る形で進められたため、 標注石だけが離れた場所に取り残されてしまいました。

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□手手かむイワシ

かつて、この浜は宮ジャコ、イワシの地曵網漁で賑わっていました。
多いときは、宮ジャコやイワシの大群で波打ち際が真っ白になるほどだったそうです。
イワシを担いだ行商人が「イワシや〜。テテかむイワシやでぇ」 (手に喰いつくほど新鮮なイワシ)と大声をはり上げて通りを回っていた光景も今は昔の話となりました。

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□室戸台風

1934(昭和9)年9月21日の午前8時前後から1時間にわたって、 近畿地方を襲った室戸台風は大きな爪痕を残しました。
大阪湾の満潮時に重なったこともあり、高潮によって海岸部に甚大な被害をもたらし、 浸水世帯は4274戸、死者は22名にもなりました。 当時の回生病院の木造の建物は、この台風によって流されてしまったそうです。

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*歴史:参考資料一覧

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関連ページ:●略年表 ●昔写真館

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